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研究員 太田 宜志
レオ党、オールスターに夢を見る

去る7月13日・14日に行われた今年のプロ野球オールスターゲームは、選出された埼玉西武ライオンズの野手6人が全員安打を放つ大活躍を見せ、レオ党の私には忘れられない試合になった。

初日の1回裏、秋山翔吾選手の史上初となる2年連続先頭打者本塁打で幕を開ければ、なおも一三塁で森友哉選手が弾丸ライナーを描く3ランで続き、6回裏には山川穂高選手の適時打が飛び出した。2日目は、4回裏に巧みなゴロ捌きを見せたプロ2年目の遊撃手・源田壮亮選手が、5回表、無死三塁の局面でセンター前への適時二塁打で先制点を挙げると、8回表、二死一二塁のチャンスで浅村栄斗選手が適時二塁打を放った。

終わってみれば、オールスター2日間でのパ・リーグ総得点12点のうち実に7打点を西武の選手が稼いだことになる。初日は豪打で球場を沸かせた森選手、2日目は走攻守で魅せた源田選手が揃って最優秀選手賞(MVP)を獲得。2日間とも西武の選手がMVPを獲得するのは、昭和62年の石毛・清原両選手以来といい、かつての黄金期の再来を思わせる。何より、今年の西武の強さである「圧倒的な得点力」がオールスターでも発揮されたことが喜ばしい。

オールスター後の7月18日試合終了時点現在、チーム打率.275、総得点453点は、セ・リーグ首位の広島(.260、389点)を抜き両リーグ通じてトップだ。その反面、投手陣の不安定さからチーム防御率4.48、総失点389点は両リーグ通じて最下位。これは1試合平均で5.6点取りながらも4.8点奪われている計算で、この状態でパ・リーグ首位に立っていること自体が奇跡と言える。

本塁打数103(両リーグ通じて2位)という豪快な打撃もさることながら、盗塁数90(同1位)という機動力も得点力を高める要因だ。またチャンスでの勝負強さも魅力で、パ・リーグの得点圏打率を見ると森選手(.386)、外崎(とのさき)選手(.377)、山川選手(.367)、秋山選手(.365)と、上位4位まで西武の選手が独占している。

平成2年から6年まででリーグ5連覇、3度の日本一を達成した西武だが、最後に優勝した平成20年以来、優勝から遠ざかって久しい。平成最後の年に10年振りの優勝で有終の美を飾ることができるかは、「野球は投手力」という常識を打ち破る「圧倒的な得点力」にかかっている。

研究員 太田 宜志
留学に半生を捧げた学問僧・南淵請安(みなぶちのしょうあん)

文部科学省「日本人の海外留学状況」によれば、平成27(2015)年度の大学等が把握している日本人学生の海外留学者数は84,456人と、前年度比3,237人増加した。留学期間別の割合を見ると、1か月未満(60.7%)が最も多く短期留学が中心である。

さて現代の留学が、語学力向上や異文化交流、果ては自分探しといった学生自身の自己研鑽を企図しているのに対し、古代の留学は他国の優れた文化に触れ、それらを自国に持ち帰り摂取するための一大国家プロジェクトであった。飛鳥時代の学問僧・南淵請安(みなぶちのしょうあん)は、32年間の留学に自身の半生を捧げた人物である。

『日本書紀』は、推古(すいこ)天皇16(608)年9月、隋の使者が帰国するに際し派遣された小野妹子(おののいもこ)に同行して、高向玄理(たかむこのくろまろ)、日文(にちもん)(旻(みん))、そして請安ら計8名の学生(がくしょう)・学問僧が隋に渡ったと記している。

請安らの渡海から10年後の618年、隋は反乱によって滅亡。新たに興った唐は、二代皇帝・太宗の「貞観(じょうがん)の治」と称えられる安定した政治のもと華やかな時代を迎えた。

『日本書紀』によれば、舒明(じょめい)天皇12(640)年10月11日、清安(請安)は高向玄理とともに、新羅・百済の朝貢使を引き連れ新羅を経由して帰国したという。しかし彼らを派遣した聖徳太子は既に亡く、蘇我氏が大王家を凌ぐ権勢を誇っていたことに請安は時の移り変わりを感じたに違いない。

また『日本書紀』は、中大兄(なかのおおえ)皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)(のちの中臣(藤原)鎌足(かまたり))が、周孔之教(しゅうこうのおしえ)(儒教)を学ぶため南淵先生(みなぶちのせんじょう)(請安と考えられる)のもとに通う往還の道すがら、密かに蘇我氏打倒の計画を練ったとのエピソードを伝える。隋から唐への王朝交代という、易姓革命(えきせいかくめい)のダイナミズムを実感した請安が、皇極天皇4(645)年に勃発した「乙巳(いっし)の変」(中大兄皇子と中臣鎌子による蘇我氏打倒のクーデター)や「大化改新」の思想的指導者ではないかとの想像が膨らむ。改新後に旻と高向玄理がともに「国博士(くにのはかせ)」として新政府のブレーンに任ぜられた一方、請安の消息は史書に見えず確証に欠けるとはいえ、請安らの半生をかけた留学が我が国に多大な影響を与えたことは確かであろう。

明日香村稲渕(いなぶち)の高台には、顕彰のため江戸時代に築かれた請安の墓碑が今もひっそりと佇んでいる。

研究員 太田 宜志
タクシーは道連れ、情けは人のためならず?

ある晴れた5月の昼下がり、御所(ごせ)駅(JR和歌山線)でのこと。

同駅を出る電車は1時間に上下各1本。自動改札機はないが係員が常駐しており、旅情のある駅だ。

そこにブレーキ音を軋ませ、高田駅(大和高田市)方面から電車が到着した。絶好の行楽日和で、デイパックを背負った中高年者が続々と改札を抜けていく。と、アジア系外国人の若いカップルが係員に制止された。二人の手にはIC乗車券が握られている。

実は高田駅から南の和歌山線でIC乗車券は使えない。そんなことを知る由もない二人は、係員から「これから発行する乗車証を持って、IC乗車券の使える最寄りの駅で精算してください」という旨の説明を5分ほど日本語で受けた後、ようやく解放された。

傍から見ていた私がほっとしたのも束の間、二人はスマホを操作してどこかを探している様子。たまたま目が合った私は、英語で近鉄御所駅の場所を尋ねられた。覚悟を決め、日本語の周辺案内板を前に、身振り手振りで二人とやり取りし始めたその時―。

「その人ら、ツツジを見に葛城山に行きたいんとちゃうん?」と、中高年の女性に声をかけられた。そう、5月の葛城山はツツジの名所として有名だ。ここから歩いて数分の近鉄御所駅からバスが出ているが、次のバスまでは30分以上時間があった。

「カツラギマウンテン? ゴートゥギャザー、バイタクシー?」臆することなくカタカナ英語で本質に斬り込んでいく女性。その迫力に圧倒されたのか、二人は目を丸くして頷くばかりだ。

「2人乗っても4人でも料金一緒やし」と笑いながら、女性は同行の友人とともに、呼んでいたタクシーに二人を乗せる。周囲が微笑ましく見守る中、今一つ事態を呑み込めていない二人を乗せて、タクシーは軽快なエンジン音を響かせ去っていった。

慣れない土地で巻き込まれた改札トラブル。英語は満足に通じず、周辺案内板の多言語化も未対応。都市部はともかく、地方部での外国人旅行者の受入体制は不十分だ。しかし、そんな中で出会った女性の親切心は、きっと旅の楽しい思い出になるだろう。

「情けは人のためならず(親切は他人のためだけでなく、巡り巡って自分にも恩恵があるので親切にすべきだ)」ということわざがあるように、親切心は観光資源に匹敵する日本の潜在的な魅力なのではないか―、割合本気でそう考えている。

研究員 太田 宜志
名奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)を偲ぶ

興福寺の五十二段(五重塔と猿沢池との間の石階段)を上がってすぐ左に「植櫻楓之碑(しょくおうふうのひ)」と題した石碑がある。石碑を揮毫した川路聖謨(かわじとしあきら)は、興福寺・東大寺境内や佐保川沿いの風致向上のため桜や楓の植樹を呼びかけ、自らも苗木を寄附した人物である。

川路と奈良との出逢いは1846年、川路が奈良奉行に任ぜられたことによる。川路は温和で誠実な人柄に加えて、ユーモアや機知、優れた実務遂行能力を兼ね備えていた好人物で、奈良の人々から深く敬愛された。また川路は約5年間の在任中に、少年犯罪者の再犯防止、貧民救済のための基金設立、地場産業の振興等数々の施策を実行。人々から「五泣百笑(ごきゅうひゃくしょう)(悪商人、悪役人らを処罰し、万民を善政で救う)」の名奉行と讃えられた。大阪町奉行への転任のため奈良を離れる際、涙を流して別れを惜しむ人びとからの餞別を固辞し、上にかけられた熨斗(のし)だけ受け取ったという逸話も、律儀な川路らしい。

川路の生涯は実に波乱に満ちている。下級役人の子という低い身分にもかかわらず、才覚を認められて異例の出世を遂げ、老中や若年寄に次ぐ要職・勘定奉行にまで上り詰めた。来航したロシアの全権大使・プチャーチンとの交渉にもあたり、開国要求をのらりくらりとかわす一方、国境問題に話題が及ぶと理路整然と主張を展開し、国益を守った。しかし晩年は大老・井伊直弼(いいなおすけ)に疎まれて左遷されるなど時運に恵まれず、病により引退。江戸城開城が目前に迫った1868年3月、切腹の上ピストルで自決し、最期まで幕臣として滅びゆく幕府に殉じた。

冒頭の「植櫻楓之碑」には、植樹にかけた川路の想いが刻まれている。

「桜楓数千株の植樹により、奈良の人も奈良を訪れた人もともに楽しめることが、私は何より喜ばしい。ただし長い年月で枯れる心配もないとは言えない。それでも後世の人がそれを補ってくれれば、今日の美しい眺めを永遠に楽しめるだろう。これこそ私が後世の人に望むところであり、この碑文を刻む理由である」(原文は漢詩、意訳は筆者による)

川路が奈良奉行に着任して、来年で170年を迎える。川路の名は今なお人々の記憶に名奉行としてとどめられ、その精神の引き継がれた奈良公園は多くの人々で賑わっている。

研究員 太田 宜志
人工知能が導く未来は何色か?

"車椅子の天才物理学者"ことスティーブン・ホーキング博士の半生と、彼を支え続けた妻の愛を描いたヒューマンラブストーリー『博士と彼女のセオリー』が、この3月13日に日本で公開される。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、徐々に筋肉が萎縮し体が動かなくなる難病に侵されながら、自らの頭脳で宇宙の謎に迫るホーキング博士の偉業を讃えない者はいないだろう。

そのホーキング博士が昨年12月、「人工知能が知力で人間を上回る」ことへの懸念を表明した。人工知能が自律的に問題を解決する機能を持つようになることで、人類の進歩を上回って進化を遂げる可能性があるという。こうした議論そのものは50年以上前から存在しているけれども、昨今では大手ICT企業が自律型人工知能の開発に本腰を入れているとの報道がされる等、次第に現実味を帯びてきたと言える。

人工知能はすでにチェスで人間を凌駕し、よりルールの複雑な将棋でもプロ棋士を脅かす存在になった。スマートフォンに話しかけるだけで、大概のことは人工知能がWebを検索して答えてくれる。人工知能による自動車の自動運転に関する研究も進んでいる。「人工知能が人類の脅威」というと、ロボットが人類を抹殺しようとするSF映画の一篇のようで実感はわかない。しかし短期的な観点からは、人工知能の発達が一定の職業の雇用を減少させることはほぼ間違いないだろう。

そうした中、ICT先進国であるアメリカでは、ホワイトカラーの一部職種がコンピュータに代替され雇用減少に陥っているとの指摘もある一方で、データサイエンティスト等、高度なスキルを活かした新たな専門職も生まれている。また、人間の意識についての解明が進んでいない現状では、デザインや発想等、人間の直感に由来するものについては、人工知能が完全に代替することは難しいとされる。

一説によれば、人工知能が人間の知力を上回り、人類を超えるスピードで進化する「技術的特異点」は2045年ごろであるという。2045年、人間は人工知能の決定に唯々諾々と従うロボットに成り下がっているのだろうか。それとも人間は、人工知能の知恵を借りながら、より人間らしい充実した生き方をデザインできているのだろうか。

研究員 太田 宜志
人口減少社会と対峙する「創造的過疎」という戦略

2040年、全国の約半数の896市町村で20~30代の若年女性が半減。一部の市町村は消滅の危機に瀕する――。本年5月8日、元総務相等の有識者で構成される「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会が発表した試算結果だ。その試算の仮定や方法について議論の余地は残るが、若年女性の減少が低出生率と相まって、急速な人口減少の要因となることは論をまたない。

そんな中、少子高齢化が全国以上に進む四国の中山間地に所在しながら、2011年に町史上初の「転入超過」(転入者が転出者を上回る状態)を記録した町がある。徳島県神山町。徳島市街から車で40分ほどの中山間地に所在する、人口6,000人ほどの小さな町だ。同町の優れたITインフラ環境と、クリエイティブな環境を好み、IT企業の移転が相次いだのが、転入超過の主因という。

そんな同町が目指すのは「創造的過疎」。地元まちづくりリーダーの造語で、人口減少を所与の条件として受け入れつつ、人口構成を若返らせることで持続可能なまちづくりを行うという意味だ。

この「創造的過疎」という方針のもと、同町では単なる企業誘致と一線を画した「人材誘致」が民間主導で行われている。芸術家を町に招待し、長期滞在しながら創作活動に励んでもらう「アーティスト・イン・レジデンス」。これをさらに進め、町の希望に沿った起業家に町で商売してもらう「ワーク・イン・レジデンス」。様々な業種の人々が集い、情報交換しながら自分たちの仕事をする「KVSOC(神山バレー・サテライトオフィス・コンプレックス)」。塾生同士が半年間寝食を共にし、神山町の様々な行事に参加しながらイベント企画力を高める「神山塾」などだ。一連の取組みは町に活気を与え、若者を惹きつける魅力を生む。

冒頭の試算結果では、関西圏の多くの地域で人口減少が進み、今後30年間で人口が増加する市町村は、滋賀県の一部市などごくわずかと見られる。中でも奈良県は全39市町村で人口減少が見込まれ、そのうち実に26市町村で若年女性が半減するという。

今求められるのは、この衝撃的な予測に対する悲観論ではないし、まして楽観論でもない。人口減少という不可避の課題に対峙し、建設的な提案を行いその影響を最小限にとどめることだ。その上で、神山町の「創造的過疎」に学ぶことは多い。

研究員 太田 宜志
「町家復興救急科」!?

横大路(奈良県葛城市長尾から桜井市初瀬に至る街道)沿道のまちづくりを取材するため、八木札の辻(橿原市)を訪ねた折のこと。「医大生が、自分たちの力で町家再生をしている」という話を聞き、早速その現場に向かうことにした。

八木札の辻交流館から、味わい深いまち並みの残る旧中街道(古代の下ツ道)沿いに南下し、JR畝傍駅を越えたあたりに、その町家はあった。格子戸越しに、中に人の気配を感じる。

お邪魔しますと声をかけ、引き戸を開ける。中は薄暗く、改修のため床板や壁が剥がされており殺風景。そこでは2人の学生さんが部材を手に、改修工事の最中だ。作業の手を止めて応対していただいたのは、奈良県立医科大学の学生サークル「チームPREドクターズ」の代表、峯昌啓さん。

同サークルと町家との出会いは、昨年秋のことだった。近辺で開催された町家の芸術祭「HANARART(はならぁと)2012」に訪れた峯さんはそこで、一帯が住民の高齢化や町家の老朽化などの問題を抱えていることを知ったという。地元の学生として、古びゆく町家を復興し、かつ地域ににぎわいを生み出す方法はないかと考えた峯さんとメンバーは、同サークルで過去にカレー屋や無料学習塾を運営した経験を活かし、経年で傷んだ町家に改修を加え、1階でカレー屋、2階で寺子屋塾を営み、地域のコミュニティ拠点として甦らせる「町家復興救急科プロジェクト」を立ち上げた。

とはいうものの、このプロジェクトは学生だけの力で進められたわけではなかった。資金面ではトヨタ財団・ハウジングアンドコミュニティ財団の助成を、デザイン面では建築設計事務所SPACESPACEの岸上純子氏から支援を受けた。町家の賃借にあたっては、八木まちづくりネットワークの協力があったし、建築資材は、大阪工業技術専門学校から不要な資材を譲ってもらうことで調達した。工事は基本的には自分たちでやるが、どうしても学生では手に負えない水回りなどの工事は、地元工務店・崎山組の協力を得たという。

かねてから私は、まちおこしには地元の人々の熱意と同様に、若者の力が不可欠だと考えており、熱意をもってにぎわいの創出や地域コミュニティの再生に挑む彼らの姿に、大いに感じるものがあった。たしかに運営主体が学生サークルである以上、メンバー卒業後の運営の問題など、様々な課題はあろう。しかし、この取組は、主体が学生でありながら、専門家の技術・意見を取り入れ質の高い空間の実現・維持を目指す点で特徴的であり、全国のコミュニティ活性化のあり方に一石を投じると私は確信している。

町家を改修した地域コミュニティ拠点としてのカレー屋・寺子屋塾。7月の開業が、今から待ち望まれる。

改修中の町家

大工道具片手に作業にあたる「チームPREドクターズ」のメンバー